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~渡部清二塾長に
生い立ちから今までの経歴を
うかがいます~

四季報読破の超達人 
渡部 清二(わたなべ せいじ)

今回は、複眼経済塾の代表、渡部清二塾長に色々なことをインタビューしていきます!(聞き手:瀧澤事務局長)

ー渡部塾長の生まれから教えてください。

渡部 清二:1967年7月19日富山県の日赤病院生まれです。
私の父が損害保険会社の共栄火災の富山支社長として富山に転勤していたんです。
覚えているのは、とにかく寒くて雪が多かったことと、同じマンションのわんぱくなやつに非常階段から突き落とされてすごい頭が痛かったことです。

ーご兄弟はいらっしゃるんですか?

渡部 清二:僕は次男で、兄貴がいます。今は筑波大学の准教授なのですが、東京大学で教育学を取って、そのあと筑波大学の医学部に行ってるんです。

ー生まれは富山で、そこからどうされたんですか?

渡部 清二:ここからが大事なんですが、父が今度は神戸に転勤になったんです。阪急御影にある小さな社宅に住んでいたのですが、うちの目の前にどでかい屋敷跡があったんです。 かつては洋風の本館があったらしいのですが、それは戦争で焼けてしまって、当時は土塀や蔵、茶室だけが残っていました。それが誰の家だったと思いますか? 実は野村證券の創業者である野村徳七の屋敷跡だったんです。だから、そこでずっと遊んでいた私は、その時に野村證券への就職が運命づけられていたのだと思います。
もう一つ、あそこには日本酒の白鶴酒造があるのです。創業家は嘉納家というのですが、その一族に、柔道の創始者であり筑波大学の前身である東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎がいるんです。 つまり御影時代に筑波大学進学と野村證券への就職が運命づけられたんじゃないかと後々思いました。

ー神戸にはいつまでいたんですか?

渡部 清二:幼稚園までです。
その、阪急御影というのは、関西の財閥の大きい家がたくさんある町で、友達がすごい人ばっかりでしたね。 特に乾汽船の乾さんとは非常に仲が良くて、立派なお屋敷の中で遊ばせてもらいました。

ー東京にはいついらしたんですか?

渡部 清二:小学校に上がるタイミングに、父の転勤で東京にきました。
練馬区上石神井が実家になりますが、区立小学校・区立中学校から東京都立西高校に行って、そのあと筑波大学です。 でも唯一賢かったと言われていたのは中学校だけです。あとは全部ダメで、小学校では平均5段階で3とかでした。 西高時代も3とかでした。まったく勉強をしておらず、また理系なのに化学が嫌いで。 そこで数学と英語と物理だけで受けられる大学を調べたら 北海道大学と筑波大学だけだったので、安易にそこに決めました。
さっそく免許取りたての兄の車で筑波大学を見学に行ったら、ちょうど紅葉がきれいな秋のシーズンで、こんないい環境で勉強できるんだ!と憧れたんです。

でも当時はつくばエクスプレスもなく、「陸の孤島」といわれる時代ですので、常磐線やバスに乗り継いでいくと自宅から大学の寮まで5時間ぐらいかかったんです。

ーバンドをされていたと聞きました。

渡部 清二:もともとはエレクトーンをやっていて、キーボードがちょっと弾けたんです。テクノポップのYMO(イエロー・マジックオーケストラ)が大好きで。 人生で初めてライブに行ったのもYMOでした。 兄が高校に入った際のお祝いに、当時最高級のアイワのラジカセを買ってもらって、それでYMO聞いてました。

高校に入学した時に、ひょんなことで隣の中学だった人と仲良くなって、彼らがバンドをやっていて、そこで最初キーボードをやっていました。 それと小さいときにドラムをやっていた覚えがあってドラムは大学でやるようになりました。その時、東京の社会人のひととバンドもやっていました。

ー初めて買ったCDはなんですか?レコードですか。

渡部 清二:始めて買ったレコードはお笑いのドリフターズの「バイのバイのバイ」でした。

ーどんな部活をされていたんですか?学校の成績は?

渡部 清二:中学校ではずっと水泳部でした。でも学校の成績はほぼオール5でした。最後、受験で大事な3年生の2学期にこれまでずっと4だった国語も5になったんですが、反抗期でトイレの壁をけり破ったら生活指導の先生の体育が4に下がってしまいました。

ー水泳は高校生でも続けたのですか。

渡部 清二:高校でも続けました。都立高の中では強い方で、夏の合宿では1日1.5万メートルぐらい泳いでいました。

人生を決定づけた大学時代

ーどんな大学時代でしたか?

渡部 清二:大学は全寮制でしたが、当初はホームシックで毎日泣きそうでした。 それで周りの人と集まって鍋パーティーやお酒を飲んだりしていたら大学に全然行かなくなってしまって。

理系だから女の子がほとんどいなくて、彼女もできたこともありません。 田舎で移動手段がないので、これはまずいと思ってまず運転免許を取りました。近くには筑波山という走り屋のメッカの場所がありましたし。 大学の駐車場は、とにかく車がボロくて、ポンコツばっかりおいてあるんですが、みんな次々と事故って廃車にしていました。

ー学業の方はどうでしたか?

渡部 清二:いつも集まって飲んでいる仲間からは、お前も留年間違いなしって言われていたんですが、 なぜか私だけ留年しなかったんです。 最後4年生になって卒業研究があるのですが、筑波大が恵まれているのは教授1人に対して学生が2~3人なんです。 でも私は勉強してこなかったから、1人にされたらどうしていいか分からないんですね。もう1人の学生はとても優秀でどんどん1人でやっていたんですが。 私の研究室の先生は東大を出てNASAに勤めていた人なんです。

もう1人の学生は「衝撃波」を研究していたのですが、それを撮影するために研究室は暗幕を張った暗い部屋だったんです。

私はその部屋でまったく別の課題の「熱伝導」をやっていたんですね。 大した実験ではないのですが、一旦始めると5時間くらいかかるので、夕方から始めると夜中になってしまうのです。
当時、筑波大のその研究棟には幽霊が出るという話があって、夜に暗幕を張った暗い部屋にいるととても怖かったことを覚えています。

ー学生時代は就職に対してどのように考えていましたか?

渡部 清二:就活のころ、「落合信彦」の本を読んでいて、非常に影響を受けました。
当時、アサヒスーパードライのCMに出ていた方で、空手の達人で、独学で英語を学んでアメリカに行った人なんですが、諜報機関を題材にした本が多かったんです。 日本には諜報機関がなく商社がその役割を担っていると書いてあって、「これからは商社だ!」と思いました。

ー商社に就職活動されたのですか?

渡部 清二:それが、田舎者だったから、それに気づいた大学4年の4月には、東京では商社の就職は終わっていたんですね。それすら知らなかったんです。 そして夏休みに入った7月頃に、就職活動を始めてみたら、ほとんどの採用が終わっていて 一応会ってくれるけれどどこもダメでした。
そのタイミングでも唯一門戸を開いてくれたのが銀行と證券だったんです。

ーそれで證券会社に?

渡部 清二:理系ならば誰でもOKという感じで、当時は都銀もたくさんありましたし。

最初内々定をとったのは富士銀行、今のみずほ銀行ですね。 しかし採用面談で暗黙のルールがわからず、最後の意思表示の確認で「大丈夫ですね?」と聞かれたのに、「ちょっと検討させてください」と答えてしまい、もう二度と入れませんでした。

ーそれは大変でした

渡部 清二:そして本当に最後門戸が開いていたのが證券会社だったんです。
当時業界3位の日興證券に行ってみたらとてもウエルカムな雰囲気で、こんなに歓迎されるのなら業界2位の大和證券に行ってみようと思い支店開催の説明会に行ってみたら、支店長に役員面談の場に連れていかれて受かってしまったんです。
そうしたら1位の野村にも行ってみようと思って大和證券本社の中にある電話から野村證券にも電話してみたんです。

ー大和證券の電話で電話したんですか?

渡部 清二:そうなんです。 その電話で野村の人に銀座に来るように言われて、会ってすぐに「やる気あるのか」と聞かれて「はい!」と答えたら受かってしまったんです。

四季報読破に目覚めた、野村證券時代

ーその場で受かってしまったのですか?

渡部 清二:そうです。それで内定が出て、役員面談では理系なので本社希望だよねと確認されたのですが、同窓生から「野村だったらやっぱり営業だよ!」と言われていて、役員面談でつい「営業です!」と 言ってしまったんです。そうしたら銀座支店に配属されてそれ以降ずっと営業になったんです。(笑)
なので、今就活している学生に偉そうなことは言えませんね。(笑)

ー銀座支店にいってどうなったんですか?

渡部 清二:まずは「名刺集め」が伝統になっていて、地区を決めて扉があるところは全て飛び込むという仕事があったんです。
支店の隣のビルに入って最上階から順番に名刺をもらってきたりしました。

次に電話外交を始めたのですが、入社した1990年はバブル崩壊の年で、インストラクターは顧客対応で忙しすぎて何も教えてくれませんし、飛び込みでも名刺すらもらえない状況になってしまったんです。

そうしたら皆腐ってしまったんですよね。 朝から喫茶店のルノアールで同期と一緒に朝食食べながらサボっていました。 4年後に長崎への転勤が決まったのですが、そこでも出来が悪くて上司にいろいろツメられました。そのときは車での営業でした。

ー長崎の時に四季報を読み始めたんですか?

渡部 清二:このときはまだです。
ただ入社して初めて新人を指導するインストラクターをやれと言われました。 水泳部をやっていたのもあって後輩に教えるのは得意だったんですね。その時2人の新人を教えることになりました。

仕事を教えるというよりは、とにかく新人と仲良くしようと思って交換日記とかしていたんです。
二人は非常に優秀で、1年目最後の営業キャンペーンで1位2位を獲得してくれたんです。 そのことが評価されて日本橋の本店に行くことができたんです。

ー後輩たちのおかげですね。

渡部 清二:そのうちの一人は今やグローバル人事部長になっています。 本店に赴任してはじめて3種の神器(注:四季報・日経新聞・指標ノート)を知ったんです。 竜沢さんという厳しい先輩に「四季報読め!」と言われて。 この時期は非常に厳しい状況で、総会屋事件で営業自粛だったんです。その時、社長が交代して、株をやるな、資産管理業だといってFP(ファイナンシャル・プランナー)をとれと言われたんです。
本店では、業務としての課という縦ラインと、商品チームとして株式チーム、債券チーム、投資チームという横のラインがあったのですが、私は縦も横もどちらも厳しい上司でした。 課長は 一橋の応援団あがりで声が大きくこわもてで、横の株式チームのリーダーが体格の良い竜沢さんだったんです。 ただこの時、ちょうど結婚を控えていて、はじめて、自分をやり直すチャンスかもしれないと思いました。

言われたことを全部やってみようと思いました。 ミーティングで本の話がでたらすぐメモって本を買いに行って読んで。 ビギナーズラックでシートゥーネットワークという会社の株価が20倍になると信頼されるようになってこれは面白いと。 そこで日本株に特化した「機関投資家営業部」という部署への異動を部長はじめ上司の方たちが押してくれたんです。

日経新聞を読むことが始まった



ー本店営業部には何年いたんですか?

渡部 清二:2年半です。 ところが機関投資家営業部へ異動が決まるか決まらないかというときに病気になって入院してしまったんです。1999年のことでした。 少しだけ会社に出られる期間があって、そこで異動になって 席はあるけれども1年くらい空白期間があって「誰だ、こいつは」という状況でした。

ー病気の原因はなんだったんですか。

渡部 清二:「潰瘍性大腸炎」だったのですが、今思うとその原因はストレスだったと思います。 本店では従業員組合の支部代表をつとめていて、そこにすごく反抗的な人がいて、その人に悩まされたのも原因の一つではないかと思ってるんです。。

ー日経読み合わせは本店営業部の時からやっていたんですか?

渡部 清二:そうです。
その時は日経というよりは新聞全紙の読み合わせをやっていたんです。業界紙が当時4紙くらいあって、それと一般紙や 専門誌など、チームで全部を読んでいたのです。

ーすべての出発点は、そこですね。

渡部 清二:結局それを絞りに絞って、日経新聞だけでも大丈夫だということに気づいて、機関投資家営業部に移ってからは日経新聞の読み合わせをするようになりました。

ーどんなお仕事をされていたんですか?

渡部 清二:主な業務は、機関投資家のファンドマネージャーやアナリストに電話して、野村證券のアナリストがこんなレポートを出したとか伝えることでした。 その業務とは別に、私が四季報で選んだ銘柄の資料をまとめていたら、若い後輩がやってきて、 「渡部さん何やってるんですか?そんなことをしている暇があったらアポでも取ってください」と言われたんです。
それでもめげずに四季報のまとめをやっていたら、だんだんそれが機関投資家に浸透して、 セールスとしても数字があがってきたので、当時はまだ規模が小さかった日系の運用会社を担当して、そのチームリーダーとしてすごい数字をあげちゃったんですね。

ー四季報の渡部の頭角が現れてきました。

渡部 清二:さらに四季報の読み合わせをしていた、顧客の大手日系機関のファンドマネージャーが、アグレッシブな運用で有名は外資系のジャーディンフレミングという大手機関に移ったんです。 そこで、その方から「渡部さん、セールスの担当をしてもらえませんか?」と指名されて、部長から同機関の担当セールスになることを認められて、売買コミッションのグローバルトップになってしまったんですね。 ところが、私は病気のため2年ぐらい会社を休んでいたため、課長昇格が4年遅れてしまったのです。

野村證券ではストレートに課長になることを「第一選抜」といって、その後の昇格にも非常に大きく影響するとされていたので、4年も遅れていた私は、サラリーマンとしては完全にアウトだったんです。でもそのようなことは気にしないで仕事をしていました。 四季報を読んで銘柄をすすめていたらお客さまに喜ばれていましたし、4年遅れて課長になった時には、課員を17時に集合させて、一日の打ち合わせをして、17時半には解散するなど、やりたいことをやっていたんです。 まだ「働き方改革」など無く、夜遅くまで会社に残ることが美徳とされる時代に、17時半解散を実践したことは非常に斬新だったと思います。

ーこの時点で四季報と日経の2つが出揃いましたね。

渡部 清二:このようにポスト課長をしている時にエミンが転勤で入ってきたんです。 元々新人が生え抜きで来るような部署ではなかったので、若手の育成という発想がなく、 「若手の育成は渡部に任せよう」という流れになっていました。 最初エミンに会った時も、初めてのトルコ人ということで、海のものだか山のものだかわからない人は渡部に任せようと私の課に配属されたんです。

ー四季報の完全読破は、現在通算で25年目、97冊(2022年2月現在)ですが、これはいつから始まっているんですか。

渡部 清二:本店営業部に移動した1997年12月からです。

エミン:私は機関投資家営業部に転勤してからです。その時、塾長の課には帰国子女の新人や、外国人、海外に赴任する若手など、いろいろな人がいました。

ーエミン塾頭が機関投資家営業部に行ったのはいつですか?

エミン:2008年のリーマンショックの時です。その後、外国株式営業課(外株課)に行きました。

エミンユルマズ、面白いやつがやってきた

渡部 清二:なので正味エミンと私は1年半くらいしか一緒にいなかったんですよね。 外株があったのでエミンは外株の営業をやれと。 そのあとこの課は外国株式営業部になったんだよね。 それで帰国子女とか色んな人がいたんだよね。

ーエミン塾頭と一緒にやっていたのは?

渡部 清二:機関投資家営業部二部の一課長だったんです。 機関投資家営業部というのは、日本株しか扱わない部でした。

ーエミン塾頭は最初に二部1課にいたあとに外国株式課に異動になったんですか?

エミン:そうです

ーエミン塾頭の印象はどうでしたか?

渡部 清二:トルコ人には生まれてから一度も会ったことがなかったからちょっと不安でした。 朝会社に来たら、すごい賢そうな外国人が立っていたんです。 「これがエミンかあ」と思いました。
トルコはまったく知らなかったので、当時のグーグルアースで、イスタンブールの街の雰囲気などから調べてみました。

イスラム教ということですし、生まれも育ちもまったく違っていましたが、私の方針としては、日本で仕事をする以上は、帰国子女も含めて日本人らしく、日本流のマナーとか気配りができないと仕事はできないと思っていたんです。
それをどう伝えようかなと思いました。

ー難しそうですね。

渡部 清二:まずは宗教上どうしてもダメなことを聞いたら 「豚肉以外は特にない」と言われましたので、豚肉には注意するけれど、それ以外は野村流で行くぞ、と伝えたんです。

ー“野村流”というのはどういうことですか。

「ツメ」という、かなり厳しめの指導で、きつい言葉で叱られることです。 しかし「なんでもオンビジネスと考えろ」と伝えて、叱っている課長も感情的に怒っているのではなく、叱っていることが仕事なんだと教えました。お前はそれを感情として受けないで、叱られるのが仕事だと思っておいてくれと。

ーそういうことは外国の方には理解しがたいでしょうね。

渡部 清二:お互いがその役割分担を理解することが重要で、例えば、私がフロア全体に響き渡る大声でエミンをツメていたら、渡部清二がエミンを指導していると周りが思うため、他の人がエミンに対して余計なことを言わなくなり、逆に自由にできるよとも教えました。

そして、四季報を読んで来いと伝えたんですけれど、正直私はそんなに期待していなかったんです。 そうしたら本当に読んできたんです。 そしてこの銘柄どうですか?と持ってきたのが、「ウエストホールディングス」だったんです。

ーそうなんですね。

渡部 清二:その後株価は25倍くらいになりましたね。 当時は太陽光バブルが起き始めていて、同社が太陽光パネルを設置するという話で、さらに株主にヤマダ電機と中国の太陽光パネル大手サンテックが入っているという話をきいて、そのアイデアはすごい面白いな、と思ったんですよね。

エミンユルマズのカルチャーショック

ーエミン塾頭にも四季報読破が伝わったんですね。

エミン:みんなで3銘柄発表しようと言って発表会などやっていましたが、まともに読んだのは5~6人でほとんどの人は読んでなかったんですよね。 最初はよくわかんないんだけど1000ページ過ぎたころから 経済の状況が見えてくるんですよね、ストーリーというか。

渡部 清二:のこり半分を超えたころからあと半分だと思ってくるよね。

エミン:最初から読んだり最後から読んだりしちゃいますよね
なんとか水産とか面白くないから飛ばして読んだりして。

ー当時のエミン塾頭はどのような感じでしたか?

渡部 清二:当初のエミンはビジネスマナー的なこと全然だめでしたが、それは誰も教えてくれなかったんだよね。 最初にエミンの歓迎会やろうとした時に、幹事の新人が「豚しゃぶのお店取れました!」ということもあったね。それだけはダメなのにね。 それで別のお店に課員みんなで行ったのですが、2次会に行こう!ということになったので、私がお店の外で隠れていたら、 エミンが「逃げやがったな」と言っていたのが聞こえてきたんだよね。 無礼講のようなノリが、かつての自分みたいな感じで、こういうやつなんだなと思って。

エミン:それまでの部では、マナーとかあんまり誰も教えてくれないし、聞くと怒られるから聞くことができなかったんだよね。 嫌な雰囲気だった。

渡部 清二:そのビジネスマナーのネタでは、皆で飲みにいった翌朝は、朝一で「渡部さんごちそうさまでした!」とか御礼をいうのが慣例なのに、一人 背を向けて挨拶もしないやつがいるわけ。そいつがエミンだったんだよ。 そこでエミンをブース(※パーティションで囲まれた打ち合わせのスペース)に呼んで、「エミンあのな、飲み会にもマナーがあるんだよ」と教えました。 飲み会の翌日は、費用を出してくれた部長と、主催者の私に「昨日はごちそうさまでした」と言うんだよと教えたら、エミンは賢いので一度で覚えたんだよね。

それとスーツに白い靴下をはいてきた時があったんだよね。 だからまたブースに呼んで 「エミンな、ビジネスソックスっていうのがあって、それは大体黒か紺なんだよ」と教えましたし、ワイシャツの下に、アディダスのロゴがドーンと入っているシャツを着てきた時も、ブースに呼んで 「おいエミン、下着を着た方が良いけど、ロゴが透けるのはだめだ」とも教えました。

そしてある日、明らかにエミンがサボってきた時があって、 「おい、エミンふざけんな」と言ったら、欧米人がよくやる、両手を空に向けて、首をすくめる仕草を取って外国人になり切ったのだけど、その時は怒りというよりも笑ってしまったね。

それから課の皆で軽井沢に合宿に行ったときがまた大変で。エミンが集合の時間に来なかったんです。 他のみんなが集まっている軽井沢からエミンに電話をしたら、まだ東京にいると言われた時も呆れたけど、その後、「トンボの湯」でエミンと合流したときに「どうも!どうも!」と悪びれず手を振ってやって来たときも呆れてしまったね。 そのくらい当時はいろいろとびっくりさせられたんですね。彼には。

ーそれで渡部塾長が退社されて、エミン塾頭は遅れて退社されたんですよね。

エミン:塾長が退社したことを知らなかったんです。 僕は師匠がいないって時点で会社と縁が切れたと思ってやめようと思ったんです。

渡部 清二:そのあと證券関係者が集まる茅場町の小野屋という隠れ家的な居酒屋で飲んだんだよね。そこで久々に楽しく話をしていたけど、まだ一緒に仕事をやるなんて思ってなかった。

エミン:そのとき、始めて会社辞めた話をしました。 まだ景気もよかったので転職しようかとも思っていたけど、それはやめて一回トルコに帰ったんです。

野村證券退職後、四季報を武器に会社を立ち上げ

ー会社を辞められてからはどうされていたんですか?

渡部 清二:具体的には何も決まっていなかったのですが、退社して1年間は就職活動は一切せず旅行ばかり行っていました。 「世捨て人」も考えていて、先祖巡りで佐渡島に行ったら、知り合いが立派な家を1ヵ月1万円で貸してくれるというんですよね。
だからここでやっていけると思ったんです。
両親の両親で全部で4系統ある中で、父親の母方だけが仙台出身で、それ以外は全部佐渡出身なんですよね。

ー旅をされたり、人生を模索されていたんですね。

渡部 清二:四季報を読むのは好きだし、銘柄見つけるのも得意でした。 以前から、プライベートな時間でも自主勉強会みたいなものをやっていましたので、そういう需要があるんじゃないかと思ったんですよね。 その頃、野村時代の先輩と出会って、意気投合して会社を立ち上げたんです。それが今の複眼経済塾の前身、「複眼経済観測所株式会社」です。

エミン ユルマズ、複眼経済塾に

ーエミン塾頭はいつ複眼経済塾に?

渡部 清二:私はその時からエミンがいたら、面白いだろうなと思っていたんです。 以前からエミンは面白い話をしていたので。例えば小麦の穂がなぜ上を向いているかっていう話。

エミン:あれはね、染色体異常なんです。下を向いたら下に落ちるんですよね。刈り取り難いし。染色体異常で栄養価が非常に高くなった。

渡部 清二:かつては稲穂みたいに下がってたの?

エミン:そうです。野生種とかは今でもそう。

渡部 清二:「ロケットの中って馬2頭分だって知ってます?」 という話もしてきたんです。 なぜか分かります? 風が吹けば桶屋が儲かるみたいなことですけど。

エミン: これはね、僕もなるほどなと思ったんだけど、かつてローマで物を運ぶのに馬2頭で馬車を引いていたけど、そうすると道の幅が馬2頭分になってきますよね。 のちの鉄道も道路の幅を基準につくるし、トンネルもその大きさでつくっている。アメリカでロケットを作るときも、バラバラにして鉄道で移動させていたんですよね。そうするとその半径に収まるものになったんですよね。

渡部 清二:こういう話をする面白いやつだな、と思っていたんです。 2014年5月に、この会社の前身を作ったんですが、その時に一緒にやっている先輩にエミンユルマズっていう面白いやつがいるって言ったんですが、その時はあまり関心を示さなかったんですよね。。 ところが2014年の年末に銀座うかい亭で忘年会があった時に、その先輩が 「この前のトルコ人はどうなったの?関心大ありなのに・・」とツメられて、 そこですぐエミンに電話したんです。

そうしたら、エミンはすでに次の就職が決まっていて、年収もすごい高いと言っていたんですけど、「給料は少ないけれど、今の会社、一緒にやらないか」って誘ってみたんです。 当然断られると思っていましたが、即断で「やります」って言うのでびっくりしたんですよね。

ーそのとき複眼経済塾のエミン塾頭が誕生したんですね。

エミン:そうです。

ーエミン塾頭は渡部塾長のことをいつから師匠と呼んでいるんですか?

エミン: いつかわからないですけど、師匠ですからね。株のことを教えてもらいましたし、ビジネスマナーのことなどいちから教えてもらいましたし。ある意味野村にいたけど、野村にいたというよりも、師匠の元で教えてもらったようなものだから。

僕に株のエッセンスを教えてくれたのは師匠です。 M&Aにいても株ってわからないんですよね。 株価は得体の知れない動きをするものだったから。 それって企業の財務データだけを見ていてもわからないし。 私が面白いことをいうっていうけど、 師匠も面白いことをいうことがあって、それが気になっていて教えてもらったから。 最初は何を言っていっているかわからなかったけど。

渡部 清二:株はわからない。それはとても大事だね。だからこそ勉強して、お互い教え合って高めていくことが大事なんだ。 今日のポイントだね。


~最後まで読んでいただきありがとうございます。~
今回のインタビューはここまでです。
次回をお楽しみに。

エミンユルマズ塾頭インタビューはこちら
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平日:10:00-17:00 電話:03-6280-8451
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